北九州市のカトリック小倉教会です。「わたしたちの教会 、あなたの教会」です。

殉教の歴史

殉教の歴史~ History of Martyrdom

 旅する小倉教会~われらへ続いた道

  ~小倉カトリック会館落成記念「歩み」から1991年(発行)~

1.【記録による小倉関係の殉教者】

1617年 小倉出身のヨハネ明石(武士)、博多で殉教
1618年 小倉で25名斬首。子供含む
1619年 小倉の重臣ディエゴ加賀山隼人(54歳)も日明りの金谷あたりで処刑。[2008年11月24日長崎にて列福]
1620年 13名はりつけの刑
1632年 3名火あぶりの刑
1633年 (家光の時代)
10月 中浦ジュリアン師小倉で捕えられ、長崎に連れていかれて穴吊りの刑後、没
1643年 マンショ小西師の殉教をさかいに、日本においては一人の司祭も居なくなった。以後1891年4月17日、教皇レオ13世によって日本に位階制を再発令されるまでの約250年間は、ローマとは直接交流を断たれることになった。この間キリシタンは過酷な弾圧迫害の下、ほとんど姿を消し、長崎地方に残ったわずかなかくれキリシタンは一人の司教も教会もなく地下にひそんだ

2.【豊前小倉地区における信徒の歩み】

(16世紀中葉より約100年間)

1549年8月15日(室町幕府後期)
  フランシスコ・ザビエル師鹿児島到着。多数の宣教師が渡来。織田信長、自分の政策上宣教師たちを保護、優遇。約十ヶ月間滞在、150名に洗礼。その後、彼は1551年11月にインドへ向けて日本を去るまで、各地を動き回って宣教を続けた。
鹿児島ー平戸ー博多ー山口ー堺ー京都ー平戸ー山口ー府内(大分)
...小倉を通ったこともあったでしょう。日本の地に初めてカトリックの種子が蒔かれた。
1577年(織田信長の時代)
  フィゲレイド師、数名の供とともに博多から山口へ移動した際、小倉で小滞在している。
1587年4月24日(豊臣秀吉の時代)
  豊臣秀吉キリスト教禁止令(ばてれん追放令)出される。宣教師たちを追放、長崎を直轄地に。
1588年
  日本に司教区設立が発令され、初めて府内(大分)に司教区がおかれる。初代司教デ・モラエス師(イエズス会)。この方は来日されなかった。
1590年(秀吉の時代)
  バリニャーノ師は秀吉に会うため長崎より都に向かったが、途中小倉城に寄った。22名の同行の人々の中に遣欧州少年使節の4名も含まれていた。この時、3名の信者が彼らを迎えた。
1591年2月17日
  二代府内司教マルティンス師来日。
1596年
  フランシスコ会宣教師や日本人など26聖人が長崎立山で殉教
1599年
  豊前の黒田甲斐守の面前で、バリニャーノ師と仏僧の間で信仰の教理について論争が展開された。
1604年頃(徳川家康の時代)
  細川忠興(妻が明智光秀の娘ガラシャ玉子夫人、熱心なキリシタン)が小倉藩主として入部、キリシタンを保護。小倉では、司祭1名、修士2名がおり、人口6000名から7000名のうち信者は2000名、この年約400名の受洗があった。イエズス会の駐在所が一つあって3名の修士が居た。細川氏はこの頃はまだキリシタンに好意的だった。布施もした。ドン・ルイス・セルケイラ師が小倉を通過した時も厚遇されている。この年1606年には受洗者が1060名を越えたので必要に迫られて、もう一つの聖堂を建てたほどであった。当時の小倉にいた司祭はカミュ・コンスタンツ師とグレゴリオ・セスペデス師(小倉で没)の二人だった。マンショ伊東が助任。
1610年(家康の時代)
  小倉には10名のイエズス会員がいた。2000名の受洗があった。
1611年
  厚遇し戦況に便宜を与えていた小倉在住のセスペデス師の死後、藩主細川は幕府の禁教令に逆らえず、キリシタン追放に転向、活況であったキリシタンの上に暗雲が立ち込めてくる。聖堂は壊され司祭の追放が始まる。
1614年
  キリシタン禁教令。殉教時代始まる。小倉にいた多くのキリシタンは教会も墓地も壊されて捕えられ、その多くは転んだ。
1618年
  小倉で37名が斬首、逆さ吊りで殉教。四代府内司教は来日できず、以後府内司教発令はなされなかった。
1619年
  禄一万石小倉藩重臣ディエゴ加賀山隼人が藩主の棄教命令に背き、日明の丘で刑死、殉教。
1632年
  細川に代わって小笠原忠真が小倉藩主に。厳重な宗門改めにより、小倉のキリシタンは壊滅した。

3.【キリシタン発見から 再宣教の始動期。(九州福岡地区)】

(19世紀中葉より現代)

1858年(安政5年) 開国により、外国人が多数来日。各地に彼らのための天主堂が建てられる。
1864年4月 プチジャン師琉球から来日。
1865年2月 大浦天主堂祝別式。当時来日していたヨーロッパ人のため。
1865年2月 プチジャン師によるかくれ信徒発見(大浦天主堂)。
  潜伏キリシタン復活。
1866年 プチジャン師、司教となる
1867年 浦上四番崩れ。復活した信徒への迫害。
1873年(明治6年) 欧米の圧力により「キリシタン禁教」の高札が撤去され、事実上キリスト教信仰を黙認する。現福岡教区の地域内で最初に胎動を始めたのは、天草島、今村、馬渡島の三つの地区。
1880年(明治13年) 天草のかくれキリシタンたちが自発的に教会を建てていた。採捕の宣教はボン師。
1881年(明治14年) 今村でソーレ師が宣教を始める。
  馬渡島でベリュー師が宣教。
1887年(明治20年) エミール・ラゲ師、初めて福岡市にて宣教。当時一人の信徒もなし。明治23年頃までに36名の受洗。このラゲ師は島田師とともに北九州の小倉地区にも宣教の足がかりを探す。町内の借家で小倉の40人の炭鉱労働者が信者。初代司祭有安師、2代目司祭ベレル師。
1891年(明治24年) レオ13世、日本に本来の位階制を発令。
  6月15日 東京大司教 オズーフ師
  長崎司教  クーザン師
  大阪司教  ミドン師
  函館司教  ベルリオーズ師

4.【小倉教会 歴代の主任司祭と主な出来事、信徒の歩み】

“教会について”の「沿革」をご参照ください。


「歩」編集後記より*
《...なお小教区の歴史の項については、不足しているところ、抜けている点がありましたら、どうぞ御教授たまわりたくお願い申しあげます。資料としては次のとおりです。
◎日本切支丹宗門史 レオン・パゼス著(岩波)
◎日本史      ルイス・フロイス著(平凡社)
◎日本キリシタン殉教史 片岡弥吉著(時事通信社)

以上「歩」より転載(一部加筆訂正:2012 年3月 28 日)